@article{oai:uuair.repo.nii.ac.jp:00013714, author = {青柳, 宏 and AOYAGI, Hiroshi}, issue = {73}, journal = {宇都宮大学共同教育学部研究紀要. 第1部, The Research Bulletin of the Cooperative Faculty of Education Utsunomiya University. Section 1}, month = {Mar}, note = {text, 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper, 哲学者、西田幾多郎(1870~1945)は、論文「私と汝」において、私たち(私とあなた)が「物」を知る、知っていく過程において生まれるケアの倫理を語っていると思われる。西田の哲学の主要概念は「場所」である。論文「私と汝」では、「場所」はさらに「無(絶対無)の場所」として語られている。西田は、「無の場所」における、物と私とあなたの係りの中から「愛」が生まれてくるという。本稿は、このように語る西田の思想を一つの「ケアの倫理」として捉えたい。 一方、フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナス(1906~1995)は、西田とは対蹠的な「ケアの倫理」を語っていると思われる。西田が物と私とあなたとの係りに「ケアの倫理」を見出していることに対して、レヴィナスは、私があなたの苦しみを感受する係りに「ケアの倫理」を見出している。 二人の哲学者(西田とレヴィナス)は、フッサール現象学の主概念、「ノエシス」、「ノエマ」の概念をそれぞれに駆使しながら、それぞれのケアの倫理を語っている。西田は、物をめぐる私とあなたのノエシスの交流において、罪、責任、他者への愛が生まれてくるという。それに対して、レヴィナスは、ノエシスを越える感受性において、私はあなたの苦しみを宿すと。 本稿は、このような二人の思想の比較を通して、西田的ケアの基盤にレヴィナス的ケアがあることを見出したいと思う。また、この比較を通して、私たちの生には、二つのケアの往還があることを見出したいと思う。この作業によって、ケアの倫理の深みと広がりを感じ取りたいと思う。 そして最後に、本稿は、西田の思想のゆたかさをふまえながらも、西田の思想を越えて、レヴィナスの思想から教育思想を再構築すべきことを提起したい。}, pages = {143--180}, title = {ケアの倫理をもとめて(その三)―西田幾多郎とE. レヴィナスの思想を比較しながら―}, year = {2023}, yomi = {アオヤギ, ヒロシ} }